リトアニア、カウナスの杉原千畝


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東ニ病氣ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稻ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
—宮沢賢治 (1896-1933)

リトアニアで外交官をしていた菅原千畝氏は、戸口で100人以上の難民がいる騒動で目を覚ましました。ほとんどがポーランドのユダヤ人で、ドイツの占領から逃れようとしていました。唯一の方法は、ソビエト連邦を横断し、さらに海外に渡航するために日本へ入国することでした。ソビエトは、日本の通過ビザを持っている人にのみ退出許可を与えるだけでした。


日本外務省は、同盟国であるドイツの気分を損ねることを警戒し、厳格な要件と手続きを遵守するよう求めました。杉原は現在でも珍しいことをしました。彼は人間の苦しみに直面し、命令を無視し、外交上、職業上の懸念を振り払いました。

「あなたはなぜか知りたいんですね。そうですね、実際に目に涙を浮かべて懇願する難民と直接顔を合わせたときに、誰もが持つ感情のようなものです。誰でも共感するしかないでしょう。」

ソ連の占領によって大使館の閉鎖を余儀なくされる最後の日まで、彼は2,140を超える手書きビザを発給しました。ベルリンに向かう電車の窓からも最後のビザスタンプを投げました。彼の最後の行為は、彼の公式のスタンプを偽造者に渡すことでした。彼の最後の言葉は、「私を許してください。もう書くことはできません。幸福をお祈りします。」

杉原さんの介入により、ヨーロッパで大量虐殺が避けられ、約6千人の人々がウラジオストックから敦賀港、また横浜や神戸から米国やイギリス、パレスチナへ渡航できました。

彼はとても謙虚でした。「私は特別なことはしなかった」と彼は言いました。「私はほかに何も気にせず、ただ人間愛からくる正義感に従い行動しました。」と言っていました。1998年に杉原の未亡人由紀子がエルサレムに行った時、涙をためた大勢の生存者に出会いました。みんな彼女の夫が署名した黄色くなったビザを見せてくれました。

杉原は日本ではよく知られていて、9つの劇とテレビドラマが6つもあります。 「このように世界中で、杉原さんの勇気ある人道的行動は高く評価されています。同じ日本人として、本当に誇りに思います。」と、安倍晋三首相は「日本のシンドラー」が国益主義の政府に反対して、何千ものビザを書いた机に座って言いました。彼の行動は広く賞賛されると同時に、常に回避されています。 2017年、第二次世界大戦以来の最悪の難民危機の最中に、日本が認めた亡命者は総勢たった20人。

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